求道blog

一ヶ月ぶりのブログ更新

Posted in 雑記, 警察・司法 by UBSGW on 2009年10月17日

「ごめんください〜・・・・」。とと、一ヶ月も放置してたせいか、我が城のはずなのに何となくよそ行きの気分になるなぁ。
季節が変わろうと政権が替わろうと、こちとら何にも替わらず日々細々と生きております、はい。金にもならないことにかまけてブログの方もご無沙汰しておりました。「あ?地方分権??寝言言うなぃ」などと言ったばかりに土人の闇討ちにあったわけではありませんのでご心配なく。と、またなんだか憎まれモードになりそうなので気をつけとこう。
実際、しばらくブログを更新していなかった理由はそこらへんにあるのでした。つまりこのところなんとなく生来の毒舌に歯止めがきかないような「勢い」があったため、敢えて衆人環視のブログに書くことを避けていたのであります。どうやらまだその気配があるようなので今日は安全運転に徹することにする。毎回毎回うるさく書いてオオカミ少年見たくなりたかないので、何事も潮時を見極めながらやってゆくつもりであります。

さて、ここ一月の間の大きな出来事といえば民主党政権の誕生(遅れちゃってる?)ということになろうけれど気になるのはやはりその行く末(政権の行く末ではなくそれによって生じる変化の行く末)であって、ぼちぼちその方向性が見えてきたように思われる。そして新政権誕生という出来事自体はもう風化しつつあるということ(当然か)。したがって政治云々について書くことはしない。ではこの一ヶ月の間に何を考えていたのであるか・・・と自問してみるが、やはり大したことは考えもせず行いもせずという結論に達する。書も読まず映画も見ずウェブ上のやりとりにもいささか食傷気味で、唯一テレビで水谷豊の単発ドラマ「誰かが嘘をついている」を見ただけの一月であった。よってそれについてひとこと。

作り話を大まかに二分して、一つは実際よりも大げさに描くものと実際の話を(なんらかの都合に合わせて)一部だけ作り出してみせるものとに分けてみた場合、このドラマは明らかに後者であった。唯一、ドラマのクライマックスで偶然に「無罪の証拠」が発見された事なきを得る、という箇所のみは前者(ま、ふつうそんなことは有りえんだろという部分)であった。ただ、「無罪の証拠」がなければほぼ確実に有罪になってしまう、というドラマの台詞はまさしく現状を端的に表現していたと思う。同じくドラマの台詞にあったように、やっていないという証拠がなければ有罪とされるのは作り話でも何でもない事実であることは疑いを入れない。その点、先日出た福島県知事の「汚職事件」の高裁判決もまた興味深いものであった。一部で国策捜査と非難されているらしい福島の事件では東京地検特捜部が非難の矢面に立っているが、ことは既に東京(中央)だけにとどまらず地方に於いても同様である。それはかならずしも国策捜査ということではなくて、あらかじめ作成されたストーリーに物事を強引に押し込めるあれこれという意味である。

以前このブログで対話とディベートについて書いたことがあった(*1)が、まさしく相手をたたきつぶすためだけのディベート、それも相手方の手足を縛り上げ口をふさいだ挙げ句に為されるディベート(それをディベートと言えるかどうかはともあれ)が今の日本社会におけるデファクトスタンダードとなっている。(はなしはさらに広がるが)そうした状況下に取り調べ可視化への反対者から為される「信頼関係構築論」(*2)はもうブラックジョークでしかない。

国家にしろ組織にしろ個人にしろ、過去の失敗から学ばず、体面も権威も世論の支持をも失わずにどうにか切り抜けようとする行き方は、早晩行き詰まることになるだろう。実際のところそうした行き詰まりを薄々感じている者はその失地を何とか回復しようともがけばもがくほど窮地に陥るであろうことに一日も早く気づいた方がよいと思うが、金銭に対する欲望に見られるが如く、およそ欲望といったものはそれが何に対するものであれ限度というのを知らないことも多分事実に相違ない。私だって脛はそれほど綺麗じゃないからね、それくらいのこたあ分かりまさぁね。
こういう物言いを見つけるや否やまるで鬼の首でも取ったみたいに訳知り顔で語る奴は逝ってよし、だぜ、佐藤さん (( 元福島県知事佐藤栄佐久氏のことではない )) 。

(追記)
フィードを一部配信から全文配信に戻しました。

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星新一『きまぐれ博物誌』

Posted in 星新一 by UBSGW on 2007年2月16日

星新一のエッセイ集。テーマは時事風俗、小説論その他多岐にわたるが、そのどれもが端的な筆致でわたしたちの視野狭窄的なありようをユーモアにくるみながら剔りだしている。このエッセイ集の刊行が1971年だから個々のエッセイの初出はさらにいくらか遡ることになる。大阪万博、三億円強奪事件、アポロの月着陸、マクルーハンのテレビ論等々が時事的な話題として取り上げられているあたり、時代を感じさせるものがある。

とはいえ、読み進めていくうちにハタと気づくのだ。私たちの身の回りに溢れるさまざまな「モノの姿形」「コミュニケーションのツール」は大きく変われど、モノではない我々自身の有り様やコミュニケーションの本質などは当時も今もまるで変化していない。あるときはミニスカートが流行り、ダッコちゃん人形がおしゃれで、ラッパズボンがカッコイイ。またあるときは・・・(以下略)。外見・外装は確かに目に見えて変わる。流行っているからみんなが着る、みんなが着るから流行る。流行っているから・・・(またまた以下略)。

べつだん、着るものに限ったはなしではない。マスコミ(世論)が政治家の発言や一企業・官庁の不手際をあげつらう。政治家や企業は二度と叩かれないようにきれい事ばかり並べるようになる。きれい事を並べているくせに中身が伴わないとマスコミ世論がまた叩く・・・(以下略)。とてもおもしろい現象だ。見ようによってはこれほどユーモラスなことはそうそうない。もっともそれには、自分がそうした輪廻の過程で必然的に生じるであろう「被害者」ではない場合に限る、という限定条件がつくのだが。

流行の波に乗ろうと大増産を図ったもののコケてしまった洋服屋。きれいごとさえ並べてれば大過なく過ごせたにもかかわらず実質を求めたが故に袋だたきにされた愚か者。彼らにとってはユーモラスな出来事だと笑ってはいられまい。ともかく、自分自身が被害者ではない限り、自分自身は今後も被害者には決してならないであろうと楽観できる限りで、誰れもがシアワセでいられる。

星新一は、その一見あたたかみのある文章には似つかわしくない、極めてシニカルな視線でそうしたありさまを眺めていた。とはいえ星ののどかな文章技法は決して売らんかなの、もしくは底意地の悪いテクニックではなかろう。

はなしが逸れるが、昨日「ラジオカフェ」というサイトでちょっとした対談の録音を聴いていたのだけれど、その中である作家さんがおおよそ「自分のことを素のまま出しても誰も聴いてはくれない」といった意味のことを話されていた。もっともなことだと思う

おそらく、星の人間観察・社会観察を素のまま出しても誰一人として星の言には耳を貸さなかっただろう。みずしらずの人間が発する「人間なんてこんなもんさ」とも聞こえるネガティブな言葉に好きこのんで耳を傾ける人は少なかろう。星の語り口はああでなければならなかったのだ。ああであるしかなかったのだ。淡々と、中性的で、つぶやくような語り口。そうしてはじめて星のシニカルな内実を(他人に聞いて貰える形で)表現することが可能になったのだ。そしてまた書くことによって星は自分自身を癒そうとしたのではないだろうか。

このエッセイ集の中に「笑顔とうやむや」と題する一文がある。国会で吉田茂が発した「動物園へ行かなくてもサルは国会でたくさん見ることができる」というユーモアを伴う言葉に、対立党の議員やマスコミが「正論」をおし立てて難詰するという茶番を、星は冷ややかに見つめる。

この発言がなされた当時の新聞報道を私は覚えている。けっしてユーモアと扱っていなかった。不祥事扱いの記事で、野党幹部の反論がのっていた。(中略)その反論のほうは少しも覚えていない。おもしろくもおかしくもない公式的なものだったからだ。そのころを境にしてのようだが、その後はどの大臣も、公式の席であまりおもしろい発言をしなくなった。(中略)ユーモアとは故意に曲解しようとすれば、どうにでもなるものなのだ。大臣だろうが都知事だろうが、だれも顔はこぼれんばかりににこにこ、発言は神経質なほど用心ぶかい。かかるスタイルが完成した。私はこんな異様でユーモラスなものはないと思うのだが、どうでしょう。

もっとも、最近わたしが耳にした政治家の失言とやらはユーモアの欠片もなかったのは事実だ・・・。星曰く、

政治家がいけないのでもない。芸能人、新聞記者、芸能週刊誌などがいけないのでもない。これが国民性なのだ。

そうして星自身もまた、そうした国民性を持った”国民”の一人なのだった。実際の星がユーモアに欠ける人物であったとはとうてい思えないが、ともかく星は「自分自身を笑いものにする」という節度を保ち続けた。一方で、そのような節度はあいかわらず持ち合わせていない御仁は今も少なくない(わたし自身がそうかもしれない)。

前に触れた「ラジオカフェ」では「ダイアローグ的知性について」という別の対談も聞くことができる。そこでは、「相手を叩きつぶすこと、相手を降参させることだけを目的とした「ディベート」とやらがいつごろから日本に蔓延しだしたのか」ということが論題の一つになっていたのだが、わたしもそのことが気に掛かっている。私見では(というか私自身の身の回りでは)1990年代の中頃からそのような風潮が目立ってきたように記憶しているが、もちろん一般化できる結論ではない。ただ、ひとつだけ言えるのはそうした風潮がとどまるところを知らず、拡がりつつあるということだけだ。

相手を降参させることを目的とした「議論」は、日本人がよく言うところの”ディベート”ではあるのかもしれないが、そのようなものはおそらく「対話」「ダイアローグ」が備える豊穣さを持つことが決してないだろう。それは議論に勝つか負けるかのガチンコ一本勝負であり既存のものからの二者択一だからである。一方(A)が負け一方(B)が勝つ。そうしてたしかに結論は出るだろうが、その結論の「導出過程には」一片の合理性もない。出された結論は単なる選択肢の一つ、暫定的なものであるにすぎない。

もちろん、物事を決定するに当っては「あれもこれもそれも」というわけにはいかないのは当然だ。しかし、ある決定が、決定されたが故にヨリ合理的であるとされるかのような奇妙な有り様に奇異の念を禁じ得ないことがしばしばある。

なぜ「ディベート」がつまらないものになったのか。ディベートに罪はない。おそらくそれはディベート教育に根本的な欠陥があるからだろう。私はそう思っている。その欠陥の一つは、それを教える側が「じぶんのつるべ」を使ったことのない、使うことを思いつかないからではないかと思われる。

話が星から逸れまくったな・・・。

しかし、この星の名著がなかなか入手しにくいのはいったいどういうわけだろう。
これほどの名著、なかなかないよ。ホントに。
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