求道blog

目糞鼻糞を笑う、いや人糞鼻糞を笑う

Posted in 行政 by UBSGW on 2010年10月29日

以下、しばらくまえ(今年9月)の話題であります。
このエントリは(注意深く観察すれば分かるとおり)書きかけのままずっと(ま、3週間程度だが)放置していたにもかかわらず、最近では自宅近辺に押しかけるだけにとどまらず、家人知人らを通じてまで「はよう書け書け」という「親切過分な圧力(?)」をかけてくださる一人二人といわずおられるようなので、それらを放置するのは心苦しくもあり、またそう言われてみればまぁせっかく書いたものを公開しないのも勿体ないなということで、結局まとまりもつかぬままだがあげることにする。そもそも人様の後押し(というか叱咤激励過賞悪罵)がないとブログの更新もなんとなく滞りがちなので、更新が滞ったらまた「圧力(?)」よろしく。む、いっそ「専属ライター」にでもなるか? 「カン詰め」でさ、せっせとブログ書く。報酬は「三度のメシと一日二本のタバコ」 ((「三度のメシと一日二本のタバコ」というこの表現はちいとばかり捻りすぎたきらいもあるが、知れば、分かる。分かるだろ?)) 、とかな。ま、好きなこと書きたいことを書いてよいのなら考えぬでもないがな。いや、冗談だ
そもそもこのブログは完全匿名(のはず)なんだ。はっはっは。
(以下、本文)


は?。
まさしく「政治的発言」の典型例だよな、こりゃ。
よう言うわ。

国民新党の亀井静香代表は22日の記者会見で、大阪地検特捜部検事による証拠品改竄事件について、「こんなことが警察で起きたら、現場の課長や署長が責任をとるだけでは終わらない。立派な検事総長であれば当然、自分で分かっている」と述べ、大林宏検事総長の進退問題に発展するとの見方を示した。亀井氏は自身の警察官僚経験を踏まえて「考えられないことが起きた」と指摘した。

「国民・亀井代表、検事総長の進退に言及『立派な検事総長なら当然、分かっている』」:2010年9月22日MSN産経ニュース

「こんなことが警察で起きたら、現場の課長や署長が責任をとるだけでは・・・」
「自身の警察官僚経験を踏まえて『考えられないことが起きた』と指摘」

おーい。正気かね?
「検察」に輪をかけたのが「警察」。これ事実。
もし検察が事実を枉げる程度とすれば警察は切羽詰まれば「事実」 ((カッコつきであることに留意せよ)) を新たに作出するところまでやる。それに比べれば検察の証拠「改竄」なぞ子供だましみたいなもんだで。そもそも警察は、悪知恵 ”追い込み”にかけては「検察なにするものぞ」、だぞ。そういえば元検事総長伊藤栄樹もその回想録『秋霜烈日』でそれらしいことを書いていたような覚えがあるな。勝負にならぬ、と。(うろ覚えなので、興味があれば一読推奨。 (( 「ここで、たとえ話を一つしよう。よその国の話である。 その国の警察は、清潔勝つ能率的であるが、指導者が若いせいか、大義のためには小事にこだわらぬといった空気がある。そんなことから、警察の一部門で、治安維持の完全を期するために、法律に触れる手段を継続的にとってきたが、ある日、これが検察に見付かり、検察が捜査を開始した。 やがて、警察の末端実行部隊が判明した。ここで、この国の検察トップは考えた。末端部隊による実行の裏には、警察のトップ以下の指示ないし許可があるものと思われる。末端の者だけを処罰したのでは、正義に反する。さりとて、これから指揮系統を次第に遡って、次々と検挙してトップにまで至ろうとすれば、問題の部門だけでなく、警察全体が抵抗するだろう。その場合、検察は、警察に勝てるか。どうも必ず勝てるとはいえなさそうだ。勝てたとしても、双方に大きなしこりが残り、治安維持上困った事態になるおそれがある。 それでは、警察のトップに説いてみよう。目的のいかんを問わず、警察活動に違法な手段をとることは、すべきでないと思わないか。どうしてもそういう手段をとる必要があるのなら、それを可能にする法律をつくったらよかろう、と。 結局、この国では、警察が、違法な手段は今後一切とらないことを誓い、その保障手段も示したところから、事件は、一人の起訴者も出さないで終わってしまった。検察のトップは、これが国民のためにベストな別れであったといっていたそうである。(中略)わが国でも、かりに警察や自衛隊というような大きな実力部隊を持つ組織が組織的な犯罪を犯したような場合に、検察は、これと対決して、犯罪処罰の目的を果たすことができるかどうか、怪しいとしなければならない。そんなときにも、検察の力の限界が見えるであろう。もっとも、そのときはそのときで、どこかの国でのように知恵を働かす余地がないでもないが。」 伊藤栄樹著 『秋霜烈日』 朝日新聞社 1988。 )) )

ま、今日のところはそういうことで。
法務省の取調べ可視化に関する報告書がおもろ過ぎるのでそれについてはまた近々。
ほなね。

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『秋霜烈日』~その3

Posted in 警察・司法 by UBSGW on 2007年3月24日

「犯罪者なぞその場で射殺せよ」
これは確かに暴論だろう。ではなぜ暴論と言うべきか。「そりゃ加害者とはいえ人間である以上は(基本的)人権があるさ」とでも言っておくか? しかしそもそも彼は他者の人権を侵害したのではなかったか。加害者によっていわれなき侵害に晒された被害者は果たしてその加害者の人権を尊重せねばならないのだろうか。そのような道学者的な要求はこの際むしろ理不尽というものではないのか。

しばし考えてみた。

おそらく「その場で射殺」が暴論でしかない理由の一つは、その場で射殺される人物が「ほんとうに犯人か否か」が明瞭でない場合があるからだと言うべきだろう。(「加害者にも人権を」という綺麗事は、当事者の「クソくらえ!」という言葉にはとてもではないが対抗できそうにない。)

もし仮に無辜の人が射殺された場合、いったい彼は何のために命を奪われたのか。彼の死は社会の安寧を守るためのやむを得ざる犠牲だということになるのだろうか。そんなはずはあるまい。私たちの社会はそうした「理不尽な犠牲」を否定することを学んだはずだ。無垢な処女を、年に一度海の向うからやってくる「海神さま」に生け贄として捧げることで自分たちの村の平穏を保障して貰うと云うような話は昔ばなしでしかないはずだ。

「犯人をその場で射殺」することは、犯人の人権を尊重するためにというよりもむしろそうした(海神様への供犠に類する)理不尽な犠牲が生じる恐れがあるからこそ否定されなければならない。「被害者のために是が非でも検挙を!」という姿勢は、ひとつ間違えば若い娘を海神様の前に引き据える、村の長老の愚行につながる。

(しかしいったいいつになったら取調べ可視化のはなしに結びつくのだろう・・・)

日弁連の論文によれば取調べ可視化反対論者の主な主張は次のようなものだそうである。

  • 信頼関係構築論・反省悔悟論
  • 精密司法論
  • 供述人保護論
  • 刑事司法手続全体論

日弁連「取調べの可視化(録画・録音)の実現に向けて」(pdfファイル)

各々の詳細は省略するけれどもあえて一言附言すれば、この論文の中で紹介されている(捜査機関側の)導入反対論は「無罪推定原則」を一切考慮していないと言わざるを得ない。そのいずれもが「被疑者=真犯人」という(暗黙の)前提のもとに立論している。或いは犯人との信頼関係を構築して供述を得て悔悟を促す、犯行に至るまでの心理その他を詳細に立証する必要性がある、供述内容が外部に流出する恐れがある、等々。

とってつけたような立論としか思えないようなものもあり、また捜査機関による「取調べ内容が外部に流出する恐れがある」などという主張にいたってはある種の「脅迫」ではないかとさえ思いもするのだが、それについてはいずれ機会があれば書くことにする。


おそらく捜査機関にしてみれば無罪推定原則などというものは建前にすぎないのだろう。だってお茶の間のテレビで警察の記者会見を見ている私のような素人が「実は無罪かもしれないけれど逮捕しました」と言う言葉を耳にしたら、きっと「じゃ、なぜ逮捕するんだよ!ちゃんと捜査してから逮捕すりゃいいだろうが!」と茶々を入れるところだ。結句、社会一般の「逮捕者=真犯人」という通念もまた捜査機関の立論を裏から支えている。

冤罪を防ぐための取調べ可視化を主張する者と、社会通念を後ろ盾にして被疑者=真犯人という前提でものを言う(言わざるを得ない?)捜査機関との間の議論にはどこまでいっても話が噛み合わない不毛さを感じさせられる今日この頃。


捜査機関はあくまでも被疑者=真犯人という前提でのみ思考し行動するのだということを示すような言葉を見かけたので紹介。
「北方事件控訴審判決 県警、詳細コメント避ける」(佐賀新聞)

無罪判決で苦悩の日々を送り続ける遺族に対しては、「犯人検挙まで時間がかかったのは申し訳ないと思う」としながらも、現段階で謝罪するかどうかは「コメントできないとしか言えない」と回答を避けた

二審での判断なぞものともせず、ということのようだ。ひょっとするとこのケースは、真犯人かどうかは問わず単なる「犯人」の検挙だけが目的(市民向けのパフォーマンス)だったとでもいうのか。
側聞するところでは(今回再び無罪とされた)被疑者が検挙されるまで一向に進展を見せなかった北方殺人事件の捜査に関して「さば県警」「さばけんけい」(仕事の出来ない”ボンクラ”県警の意)という罵声が飛んだらしい。

敢えて穿った見方をしてみれば、このいささか強引ともいうべき検挙は捜査機関の汚名返上が主目的だったのではないかとすら思えなくもない。法治国家に住んでいると素直にも(間抜けにも?)信じているものとしてはそうではなかったと思いたいところだが。

最後になったが、この際、冤罪を防ぐためにもまた審理の場での無駄な水掛け論を避けかつ真犯人を取りこぼさないためにも取調べ可視化の導入を検討すべきではないだろうか。(常日頃から当為の言葉は使いたくないと思っているものの、ここは行きがかり上・・・。御免)

そしてその検討にあたっては「被疑者=真犯人」という社会通念に寄り掛からない、フェアな議論が為されるべきであるはずだ。

司法システムにおけるフェアネス。
『秋霜烈日』を読みながらそんなことを考えました。

(2007年3月24日夜一部改稿)

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『秋霜烈日』~その2

Posted in 警察・司法 by UBSGW on 2007年3月21日

先日のエントリ(リンク下記)で取り上げた元検事総長伊藤栄樹の回想録『秋霜烈日』の感想の続きを。

伊藤氏が亡くなられてからもうの幾星霜、あらためて調べてみたら1988年没ということですでに20年近くも経っていて少しばかり驚く。彼に何の縁故もない私ですらどういうわけか彼のことがやけに印象に残っている。歴代の検事総長が何人なのか知らないが(調べろよ)、そのうちで私がご芳名を存じ上げているのはこの人ひとりだ。

前回も書いたことだけれども、私が彼の言動から受ける印象は「フェア」であるということだ。なぜそう思うのかと問われてもあくまで私(という偏見溢れる)個人が受けた印象だから特段の理由はないとしかいえないのだが。

つい先日控訴審判決が出た佐賀の連続女性殺人事件は今のところ大したニュースにはなっていないようだ。まだ判決が確定したわけではないし、富山・鹿児島の冤罪事件とは幾分違った事情があるのだろうが(「同一」の事件などそもそもありえないわけだけど)、それらに共通する確かなことが少なくとも一つある。

それを一言でいえば捜査機関による取調べの前近代性ということになろう(「近代」などという”あやふやな言葉”を使うしかないくらい私の語彙が乏しい点は平にご容赦を)。限度を超えた長時間の取調べ、(被疑者本人のみに止まらない)種々の圧力、ときには不当とも思えることのある身柄拘束。身体的自由を奪い、精神的圧力を加えることによって被疑者の自白を引きだすことをして「適正な捜査」とされる不可解さ。

もしそうした取調べ・捜査手法が「まことの」犯人に対して為されるというのならば、法律家ならいざ知らず、素人(私)ならばおそらくそれを黙認する。
暴論を承知で言えば私は「犯罪者なぞその場で射殺すべき」とさえ思っている。犯罪者がうまうまと法の網をすり抜けてデカイ顔をしていられるようなケッタイな規則・制度などクソ食らえとさえ思う。但し、一つだけ限定条件がある。
そいつが「真犯人」である場合に限る、
という条件だけは何があっても外せない。

司法制度を論ずる際に被疑者・被告の人権が考慮されるのは当然のことだろうが、ひとが「被疑者」・「被告」と言うとき、同じ言葉を用いる一人ひとりが各々そこに異なった意味を持たせているように思われることがある。
たとえば、ある人は被疑者・被告を「いまだ刑の確定してないだけの犯罪者」の意味で用い、別の人は「嫌疑を受けているが(ひょっとしたら)無辜かもしれない人」の意味で用いている。

前者と後者では、「被疑者・被告にだって人権がある」という近代法治国家としては当然の認識でさえ、その受け止め方には大きな隔たりが出てくるのは当然といえよう。もちろん理性に訴えればそのどちらもが被疑者の人権を当然のように(或いはいやいやながらも)承認するだろう。「そういうことになってんだから」と。

しかし、当然のことながら「悪人」の利益を守れと言われてそれをなんの躊躇もなく実行できる人というのはよほど人間の練れた人物、寛大な宗教家くらいではなかろうか。もちろん(小人の)私には到底実行不可能だ。

ここで、もし私や私の家族・友人が運悪く何らかの犯罪の被害者なったと仮定してみる。私がもし犯人に復讐をしないとすればそれは犯人を赦すからでは決してないだろう。、むしろ復讐をなすことによって自分自身が新たな犯罪者として断罪されるであろうと予見してやむをえず自分の行動を抑制する(せざるを得ない)というだけのことでしかない。そして復讐を実行できない私は当然に公権力による厳正峻烈な犯人処罰を求めるだろう。

被害者や被害者の親族にしてみれば犯人が検挙され処罰されることは当然の願いだろう。そして捜査機関がそうした被害者・家族の心情を踏まえて事に当たることは社会的にも是認されることだろう。

問題は、「真犯人」か否か。
被害者にしても(あるいは捜査機関にしても)真犯人の逮捕・処罰を望み追求しこそすれ、無辜の人を断罪することを望みはするまい。
それどころか無辜の人が断罪されることによって真犯人がどこかでのうのうと同じ悪事を繰り返すことを許してしまうことにでもなれば、それこそ痛憤極まりない事態だと言うしかない。

と、書いてきましたがまた長くなってきたのでまた次回・・・。

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