求道blog

こういうクニだからね

Posted in 社会 by UBSGW on 2010年6月5日

民主党政権の誕生以来、少しはましになったような気もしているが(たぶん気のせい)、それでもまだまだ途絶えることのない冤罪。まあ今をときめく「お役人」のやることであるから、とりあえず政治家の責任では無い。鳩山(前)首相は6月2日の民主党議員総会での辞任表明演説で、有権者が聞く耳を持たなくなったと語っていたが、聞く耳を持たないといえば同じく辞任表明後のぶら下がり会見でのマスコミ記者たちもまた聞く耳を持たないというか、ハナから詰問調で「おいおい、君らの仕事はなんなんだ、オイ?」と言いたくなった。鳩山氏が辞任記者会見を行わなかった理由は寡聞にして知らないが、ああいう記者たちとは口も聞きたくないと私なら思うね。いっそマスコミ会見全廃、かわりにすべてネット中継・ネット配信してもらえばいいんじゃないかと思う。いやいや、以下、聞く耳を持たないといえば取調官だよ、というハナシにつなげたい。

防犯カメラの映像などをもとに男性が窃盗罪で起訴されたが、その映像に映っていたのは当の男性ではなかったのだというのだ。よくあるハナシではある。

盗まれたキャッシュカードで現金を引き出したとして、窃盗罪に問われた金沢市の男性被告(61)の公判で、金沢地裁(入子光臣裁判官)は、現金自動出入機(ATM)の防犯カメラに映った人物と男性は別人とする鑑定結果を証拠として採用した。(中略) 弁護人の織田明彦弁護士らによると、男性は昨年8月に石川県白山市内のコンビニエンスストア内のATMで、同市内の車の中から盗まれたカードで計100万円を引き出したとして、同10月に逮捕、翌月に起訴された。男性は一貫して否認し、織田弁護士は今年1月から始まった公判で「防犯カメラの人物と男性の耳の形状が異なる」などと主張した。 検察側が高度な映像鑑定技術を持つ愛知県警にカメラの映像の分析を依頼したところ、男性が事件に関与した疑いが薄まったため、4月12日に地裁に男性の勾留(こうりゅう)を取り消すよう請求し、認められた。その後、検察側の要請で同県警が再鑑定した結果、別人と断定。地裁は5月21日、この鑑定書を証拠採用した。

「防犯カメラの男「被告と別人」 窃盗罪裁判で無罪論告へ 」(朝日新聞:2010年6月4日)
ところでこういうとき、搜査幹部がその非を認めることは珍しい(まだ判決が出てないようだからどんでん返しあるかしらん)。おお、警察も少しは変わったかとおもいきやさすがは言い訳上手のお役人、本領を発揮してさらにウソを重ねていて呆れたよ。自分の聞きたいことだけが聞こえる耳というのはほんとうに存在するのである。しかしこの幹部を責めてはならない。だって彼の組織では「みんながやっていること」なのだから。その職責にある者の多くが為している非違行為は、(おかしなハナシではあるが)日本の役所の中では「非違行為」とは見做されないことになっている。そのことは数年前の「未履修問題」の顚末からも明らかである。

窃盗罪に問われた金沢市の男性被告(61)の公判で、金沢地裁(入子光臣裁判官)が防犯カメラに映った人物は別人とする鑑定結果を証拠採用した問題で、捜査を担当した石川県警松任署幹部(当時)は4日、読売新聞の取材に対し、「冤罪(えんざい)事件」と認め、「慎重に捜査を重ねたが、自分のミス。(被告に)申し訳ない」と語った。この幹部によると、防犯カメラの映像は鮮明で、誰が見ても本人と思ったという。男性は同署の調べに容疑は否認したが、画像については「『写真は自分』と話した」という。その上で、「画像は自分じゃないと否認していたら逮捕していなかった」と弁解した。一方、男性も同日、取材に応じ、「(県警の調べに)写真は似ているけど自分とは違うと話した」と、幹部の話を否定。「(事件のあった)コンビニに行ったこともないと言った」と語り、(中略)男性の弁護人によると、検察の調書でも、映像の人物は「自分だ」と認める内容になっているという。(以下略)

「防犯カメラ別人映像、当時の署幹部が冤罪認める」(読売新聞:2010年6月5日)
「犬も歩けば棒に当たる」とは、物事を行う者は時に禍いにあうという意味を含むのだそうであるが、今の世の中、歩くまでもなくただぼんやりしていてもいきなり棒で打たれるというのがより実感に近い。だから、そいういう状況の下で「自主防衛」だとか「景気回復」だとか「○○手当支給」とか「××補助金」なんぞに努力する国家というのはただの間抜けにしか見えない。まして政局なんてのぉ・・・。どこの怪談だか。


2010年6月6日追記(続報)

(前略)石川県警が防犯カメラの男が着用していたのに似た白いシャツとメガネを男性の自宅から押収、金沢地検が金沢地裁の公判に証拠提出していたことが5日、わかった。映像の人物と男性の同一性を補強するための証拠だったが、ともに特徴のない量産品とみられ、捜査関係者は結果的に証拠価値の評価を誤っていたことを認めた。(中略)防犯カメラの映像では、よく似たシャツとメガネを身に着けていた。男性被告によると、県警の取り調べで両方を見せられ、「顔も服装も似ている」と追及された。男性は、コンビニ店の映像の男に自分がいつも着けているネックレスがないことを指摘して否定したが、捜査員は「犯行の時は外せる」と取り合わなかったという。捜査関係者は「映像はノースリーブというのがわかる程度。誰でも持っていそうなシャツという印象だったが、60代の男性が同じシャツを着ていることに引きずられてしまった」としている。

「防犯カメラ別人、男性宅から『証拠シャツ押収』」(讀賣新聞:2010年6月6日)
砂上の楼閣にすぎなかったわけだが、役人からすれば「一丁上がり」のお茶の子さいさい、というわけだ。

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一ヶ月ぶりのブログ更新

Posted in 雑記, 警察・司法 by UBSGW on 2009年10月17日

「ごめんください〜・・・・」。とと、一ヶ月も放置してたせいか、我が城のはずなのに何となくよそ行きの気分になるなぁ。
季節が変わろうと政権が替わろうと、こちとら何にも替わらず日々細々と生きております、はい。金にもならないことにかまけてブログの方もご無沙汰しておりました。「あ?地方分権??寝言言うなぃ」などと言ったばかりに土人の闇討ちにあったわけではありませんのでご心配なく。と、またなんだか憎まれモードになりそうなので気をつけとこう。
実際、しばらくブログを更新していなかった理由はそこらへんにあるのでした。つまりこのところなんとなく生来の毒舌に歯止めがきかないような「勢い」があったため、敢えて衆人環視のブログに書くことを避けていたのであります。どうやらまだその気配があるようなので今日は安全運転に徹することにする。毎回毎回うるさく書いてオオカミ少年見たくなりたかないので、何事も潮時を見極めながらやってゆくつもりであります。

さて、ここ一月の間の大きな出来事といえば民主党政権の誕生(遅れちゃってる?)ということになろうけれど気になるのはやはりその行く末(政権の行く末ではなくそれによって生じる変化の行く末)であって、ぼちぼちその方向性が見えてきたように思われる。そして新政権誕生という出来事自体はもう風化しつつあるということ(当然か)。したがって政治云々について書くことはしない。ではこの一ヶ月の間に何を考えていたのであるか・・・と自問してみるが、やはり大したことは考えもせず行いもせずという結論に達する。書も読まず映画も見ずウェブ上のやりとりにもいささか食傷気味で、唯一テレビで水谷豊の単発ドラマ「誰かが嘘をついている」を見ただけの一月であった。よってそれについてひとこと。

作り話を大まかに二分して、一つは実際よりも大げさに描くものと実際の話を(なんらかの都合に合わせて)一部だけ作り出してみせるものとに分けてみた場合、このドラマは明らかに後者であった。唯一、ドラマのクライマックスで偶然に「無罪の証拠」が発見された事なきを得る、という箇所のみは前者(ま、ふつうそんなことは有りえんだろという部分)であった。ただ、「無罪の証拠」がなければほぼ確実に有罪になってしまう、というドラマの台詞はまさしく現状を端的に表現していたと思う。同じくドラマの台詞にあったように、やっていないという証拠がなければ有罪とされるのは作り話でも何でもない事実であることは疑いを入れない。その点、先日出た福島県知事の「汚職事件」の高裁判決もまた興味深いものであった。一部で国策捜査と非難されているらしい福島の事件では東京地検特捜部が非難の矢面に立っているが、ことは既に東京(中央)だけにとどまらず地方に於いても同様である。それはかならずしも国策捜査ということではなくて、あらかじめ作成されたストーリーに物事を強引に押し込めるあれこれという意味である。

以前このブログで対話とディベートについて書いたことがあった(*1)が、まさしく相手をたたきつぶすためだけのディベート、それも相手方の手足を縛り上げ口をふさいだ挙げ句に為されるディベート(それをディベートと言えるかどうかはともあれ)が今の日本社会におけるデファクトスタンダードとなっている。(はなしはさらに広がるが)そうした状況下に取り調べ可視化への反対者から為される「信頼関係構築論」(*2)はもうブラックジョークでしかない。

国家にしろ組織にしろ個人にしろ、過去の失敗から学ばず、体面も権威も世論の支持をも失わずにどうにか切り抜けようとする行き方は、早晩行き詰まることになるだろう。実際のところそうした行き詰まりを薄々感じている者はその失地を何とか回復しようともがけばもがくほど窮地に陥るであろうことに一日も早く気づいた方がよいと思うが、金銭に対する欲望に見られるが如く、およそ欲望といったものはそれが何に対するものであれ限度というのを知らないことも多分事実に相違ない。私だって脛はそれほど綺麗じゃないからね、それくらいのこたあ分かりまさぁね。
こういう物言いを見つけるや否やまるで鬼の首でも取ったみたいに訳知り顔で語る奴は逝ってよし、だぜ、佐藤さん (( 元福島県知事佐藤栄佐久氏のことではない )) 。

(追記)
フィードを一部配信から全文配信に戻しました。

毒を以って毒を制す

Posted in 雑記 by UBSGW on 2008年2月18日

ゆとり教育からの決別だそうな。
「あっちむいてホイ」「こっちむいてホイ」。
右往左往とも言う。
ともあれ学校教育がそのようなていたらくである以上、良識ある人々はなお一層家庭教育を大事にしていかねばならぬということだ。お上頼りはあてにならぬ。

ゆとり教育を受けた世代、いわゆる「ゆとり世代」が自信を喪失しているらしいなどという、出所の怪しげな記事をネット上で見かけたが、仮にそれが事実だとすれば、「もっと自信持っていいと思うよ」とひとこと言いたい。三つ子の魂百までと言うも、人の人生において、たかだか12年ばかりの学校教育なんてものは年経るごとに大した意味を持たなくなっていくとは言えなくもない。いささか暴論と言われるかもしれぬが、いい年になっても学校教育の影響下から脱しきれない大人がいたとしたら、その人は学校を「卒業」してからの長年月、よほど「勉強」しなかったと思ってよい。勉強と言っても、国語算数理科社会、とは限らない。言ってみれば、学校教育によって自分が如何に歪んでしまっていたのか、あるいは学校教育によって自分が如何に成長したのかということを、卒業してから何十年も経ったのちに実感出来るようになれば、ゆとり教育だろうが詰め込み教育だろうが大差ない。学校教育に関して熱心に議論する方々の中には、人の一生すべてが学校教育によって完全に方向づけられる、方向づけられてしまうと考えているかに思われる人も見かけないことはない。しかし、そうした人々にせよ、はたまた自分が「ゆとり世代」だと自虐的になる人にせよ、学校教育というものを過大に捉えてしまうという点では似たものを持っているように思われる。
「どうでもいいじゃん、そんなこと」
人生を無為に過ごしてきた人というのは、すぐ見分けられる。それは、受けてきた教育が指標になるわけではない。たいていは「ことば」でそれと分かる。

「定義がはっきりしない冤罪というものをこの事件まで適用すると、無罪事件は全部冤罪になってしまう。裁判の結果、無罪になったケースととらえたい」

これはハトヤマとかいう今の法務大臣の発言の由だが、「ゆとり世代」まで待たずともこんな人間だっているのだ。そもそもゆとり世代がバカなのではなく、バカな奴がバカなのであり、ゆとり世代にだって恐らく(潜在的に)有能な人材は数多いと私は楽観している。

21世紀に入ってから、政治家の発言の中で「定義がはっきりしないのであるからして云々」というのがしばしば見受けられるようになった。定義、なんて言われると数学の授業で頭を悩ませたあの頃のことを思い出してしまって、「おお、なんて緻密な思考をする人であるのかああ!」と感心してしまう御仁もおられることと推測される。しかし、語義を研究したいというならともかく、人を相手に言葉を投げる以上は、その言葉の定義なんてものよりもそれがどのように相手に受け取られるかをまずは慮るというのが普通の人間というものだ。

「被告だった方々が不愉快な思いをされたなら、おわびしなければならない」

これまたハトヤマ法務大臣の言である。こういう人間が法治国家の重要な一角を占めていることを忘れてしまっては、日本に住むものとして賢明とは言い難い。
逮捕・勾留が「不愉快」程度のものなら、別段法律で縛りをかける必要などそもそもなかろう。こうした言葉は、それがどれほど深刻な打撃を人に与えるかを感得できず、感得しようともしない人ならずば決して出てこない類の言葉といえる。こういう人物が死刑の執行命令その他を出しているのだと思うだに暗い気持ちになる。

ここはひとつ、今後法務大臣に就任するものを選ぶにあたっては、選挙違反・脱税・収賄その他、何らかの容疑により捜査機関から徹底的かつ人格を無視した取調べを受けた人間を「適任者」と見なしてはどうだろうか。「そんな人間を大臣にしてよいのか!」と怒り出す人もおられようが、考えてもみたまえ。国民の代弁者たる政治家がいつのまにやら国家機関と一心同体になってしまっては、民主国家の看板は「偽装」に等しいではないか。
毒を持って毒を制す。

いっちょ、やってみませんか?
結句、「ゆとり世代」よりも「戦争を知らない世代」の方がよほど由々しき問題だと私は思っている。むろん私自身、「戦争を知らない世代」なのだが。

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