求道blog

樹海通信〜ひとことだけのはずが

Posted in 雑記 by UBSGW on 2007年10月16日

カフカ樹海も短篇エリアに入ってみるとけっこう見通しがきくなあ。ジャングルのような長篇エリアとはちと趣きが異なる。そこでちょっとばかり交信を試みることにした。

昨日ふとテレビに目をむけたらちょうど国会中継があっていた(いや、ま、たぶん樹海でも見ることができる衛星放送なんだろ、ハハ)。オタク防衛相が給油法案とやらで答弁に立っていた。しかめっ面の学級委員みたいな顔で「集団的自衛権の行使ってんならそれを証明していただきたい」とかなんとか言っていた。ムチャ言うよ。矛盾の塊みたいな安全保障政策(含む憲法)を作り上げたのは自民党なんだし、そんな矛盾だらけの政策に対する批判はこれまた論理的整合性なんかあるわけないんじゃないの。口先ばかりの論戦。しかしこれはなにも自民党に限った話でもなさそうだ。近年の国会論戦は見ていて面白くないもの。

べつに私も国会論議に面白み・エンターテイメントを求めるつもりはさらさらないが、一昔前の国会論戦は端から見ていてもけっこう楽しめるものがあった。老キツネと老タヌキとがトボけつつ韜晦しつつ化かし合っている様子は見ていて飽きることがなかった(ま、飽きるほど長くは見なかったんだが)。「歳費をもらっていながらのったりのったり何やってんだ!」と思わないでもなかったような気もするが、少なくとも当時の国会論戦は、楽しもうと思ってみれば楽しめた気がする。

今はどうか。
つまらない。
小学校の「帰りの会」で、もっともらしい(ラ・シ・イ)ことをくっちゃべって得々としている三角眼ぇした学級委員みたいなやつらばっかし。
「はんせーしてくださぁ〜い」
「しょうめいしてくださぁ〜い」
ひょっとすると「でべーと」(ああごめん「でぃべーと」ねハイハイハイハイすいませんね)とやらはああして憎々しげなツラをつくって嫌味たっぷりな口調でやるものなのだろう。「あぁーあ、おめーはな〜んも分かってねーんだな〜あオイ」と言いたげな品のない顔顔顔顔・・・。たぶん、そのようなやりとりと顔を長時間見たいなんて人はあまりいないのではなかろうか。私は見たくない。胸糞わりいもんでね。

いや、もちろん私とてまじめな議論を尽くしていただきたいものだとは思っている。
しかし、ね。それぞれ相異なるスタート地点に立った人たちが、議論を通じてそのどちらでもない新たな知見・政策・妥協点を見出していくという形での国会論戦というものは今のような党内独裁体制ではもう不可能になってしまったのであろうか。仮にそうだとすれば、単に相手をうちたおすばかりの「でべーと」や自説を押し通そうとするばかりの国会「論戦」がおもしろみのないものになっているのは蓋し当然か?

論戦でいまふと思い出した。
昨今の国会風景はかつて軍部が専横を極めた時期のそれと似ている(ような気がする)。いや、戦後生まれの私は戦前の国会風景をつぶさに知る者ではない。ちらりチラと映像を見たばかりにすぎない。もし、「おまえの言うことが正当だってんなら証明してみせよ!」というお方がおられるなら、ためしに一度ご自分でご覧になってみてくださいね。 「ハナシはそれからだ!!」ちょいと話が逸れかけた。で、まあ鹿爪らしい顔で大上段の構えから語りつつ、不都合な真実については「軍機であるから答えられぬ」でおしまい、そんなカンジ。いまならさしずめ「テロリスト!」。これ魔法の呪文ナリ。ナントカ防衛相の顔を見ていたら彼にはどうも軍服がお似合いである。あ、そういえば彼は元自衛隊制服組か。さもあらん。

当時は当時でそれなりに不満もあったような気がするが、なんだか懐かしく思えてきたタヌキ親父ども。ま、論戦の中味はいまもむかしも五十歩百歩なのだろうが、どうせ中味がおんなじならちったあ楽しめるほうが愚民の一人としてはアリガタイ。
「物事はもっと真剣に考えるべきである!」ですか?
そうです。そのとおりです。おっしゃるとおり。
でもつまらないものはつまらない。私はべつに国会で猿回しをやれともいわないし一発芸を披露してほしいとも言わないよ、わたしは。ただ、自ずと滲みでてくるユーモア・余裕なんてのが滅法好きってだけのことなんでね。例えて言えば、そうね、「冬のソナタ」のキム次長みたいな、ね。別になくとも困りはしない、無駄な、でも人間味という「味わい」を持っている人が少なくなった。たしかに「無駄はよくない」、そのとおり。しかし、「なにが無駄なのか」というところで私たちは極めて粗雑な思考をしてはいないか。もしやそうしたことを考えることが既に無駄なことだとでもいうのだろうか?

生存確認のために一言だけ、と思って書き始めたら結構長くなった。当初の案では、「福田康夫サブマリン内閣」のバサロ泳法は鈴木大地(鈴木宗男@新党大地ではないよ)の指導のたまものであるというところに落としこむはずだったのだが、なぜかキム次長になった。おそまつ。
昨日冬ソナ最終話を見たせいか・・・。これ、日本語吹替版はもうそれだけで改竄にあたるという確信を深めた。これもまた近いうちに書きます・・・書くはず、書くかも。
イジョウ、コウシンオワリ。

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絶滅危惧種の「文学」?

Posted in 雑記 by UBSGW on 2007年10月3日

もーれつア太郎・・・・・・いえ、猛烈に眠い。
ギャグをとばす余裕もない。
「んならさっさと寝ればよし」などとはおっしゃいますな。なんだか今日は、書かねばならぬような気がするので、書く。
プスリ。プスリ。

と、こう書き出すとあとが続かなくなる。「そこまでして書くのなら、いつもとちがって少しは実になることでも書くのだろ?オイ(ヒッヒヒヒ)」と、「邪魔」が耳元でささやく声が聞こえる。「書いている私」が「書こうとする私」の言葉を検閲しジャマを始める。

悪霊退散!

行きつけの某Iブログのコメントが面白い。といっても記事によっては100件近くのコメントが寄せらるようなのでとても全部は読めないんだが。で、なにが面白いのかといえば、まず「ニート関連の記事」とか「格差問題」のたぐいの記事ではコメントが激増する。で、さらにその場合、若年者とおぼしきコメントが大半を占めているのだが、その「語法」に際だった特徴がある。それをひとことでいえば「2父ねる風」。語尾につく「 wwwww」とか「・・・思われ」なんていう一目瞭然のものは言うまでもないことだが(てか「wwwww」ってどういう意味なのかね)、一見すると普通のコメントのように見えるものもある。しかしそれらにしても「普通に見えることは見える」んだが(普通のってのもヘンだが)、ちょっと読んでみると「事実らしきもの」「それらしい単語」がズラズラズラズラと並んでいて(それゆえ当初は興味を惹かれる)、でもそれだけ。それらしき単語、記事内容に関連した事実らしきものが並列しているのみで、コメント筆者の思考とか選択とか判断とかがきれいにマスキングされてしまっている。つまるところは「それは正しい」「それ間違い」ということだけを言いたげなコメントというわけ。「私の考えでは・・・」というものではないので、読む気が失せる(私の場合はね)。むろん、「私の考えでは、あなたの記事は間違いだ」などとやってしまっては結局形は変えても中身は一緒になってしまう。すくなくとも自分の意見の論拠を明確にしなくては「単発屁」から脱せない。そしてその論拠はなにも客観的データである必要は必ずしもない(「論拠は全て客観的検証に耐えるものでなければならない」という暗黙の前提が存在する業界でもない限りはね)。エッセイの類に「論拠だ、論拠を示せ」というのは痴愚の弁なり(だってエッセイなんてその人の主観の表出にこそ価値があるんだし、論拠は「おれがそう思った」というところにあるのがそもそもの前提なのだ)。算数のテストでもないんだから別に正か誤か白か黒かの結論部分よりも、なぜ自分がそれを白と思うのか(あるいは黒と思うのか)、なぜ正しいと思うのかを語ってこそ他人をして読む気にさせるというものだ。そのようなわけで、あるいは論拠云々よりも結論そのものの正誤(白黒)が大切なのか、あるいは結論よりもそれへ至るまでの道筋をわかりやすく語ることが大切なのかということを、その具体的状況を勘案して使い分けることはけっこう大切なことのように私は思う。しかしどうやら現実には、論拠とは「データソース」のことらしい。「あの本にこう書いてあった」「あの人がこう言った」果ては「社会の常識」。誰もが納得しそうな客観的体裁をとった模範解答が欲しいらしい。しかし私に言わせればそんなものは論拠にならぬ(ことが多い)。そこらで言われるデータソースなんてものは大抵の場合検証がなされておらず、かつ既に加工済みの色つきデータなんだから。思うに論拠とは究極的には、論者がどのような前提に立って立論しているのかを示すものでなければならない。逆に言えば、それが見えない「論拠」は論拠とは到底言えぬ。それが客観的な論拠(データ)なのかあるいは主観的な論拠(思考の足場)なのかは二次的な問題なのだ。論者の足場が明確に見えるていのものであるならばそれが主観的な感情であってもあるいは勘違いであっても誤報であっても論拠としては既に十分といえる。くだくだしくなったが、論拠は客観データを示せば足りるものではないしそれに尽きるものでもない、ということ。んなもんは「自然科学という宗教」の教義の一つでは?

ちなみに当の池田氏は、かつて、その手の面白みのないコメントを発する読者を「ネットイナゴ」と命名されたらしい。当の文章に即した読解をせぬまま、重箱のすみをつつき回して、なにひとつ生産的なことはせぬまま記事を食い荒らしたあげくに去っていく姿はまさに蝗。

うかつなことを書くと蝗の群れを誘い出すことになるのやもしれぬので物騒なことは書くまい。もっとも、これ以上ないほど痩せた土地にスカスカの稲穂が実を結んでいるだけの我が田畑であるから、杞憂に過ぎないだろうが。

ともあれ、間違いだらけ、事実に反すること、虚構であることによってたつ「文学」が売れなくなったのは蓋し当然と言うべきかもしれない。
「そんなもん、くだらないファンタジーじゃねえか」、とね。

仮に、文章を全体としてではなく逐語的にしか読まない、読めなくなったのだとすれば文学なんてそう遠くないうちに絶滅するだろうね。文学を世界遺産に登録するという話はまだ耳にしたことがないけれども、近いうちにそうなるのかな?

いや、そもそもネットと文学とでは棲息する種がそもそも異なるのであろうか。誰か教えて。

ん、天に唾してしまったかもしれない。

(2007年10月4日一部改稿)

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事実と真実のスキマ

Posted in 雑記 by UBSGW on 2007年8月7日

かつての私にとって、根拠の無い主観的・独断的な文章を読まされることははなはだしい苦痛であり難行苦行であった。したがってそのような文章は読まない、破棄する、無視することにしていた。独り言を延々と聴かされるのはたまらない。なぜ「たまらない」のかといえばそれは、書くことそのものや書いている自分自身に酔っているようにしか思えぬ書き手に敬意を感じることは難しく、またそれゆえその言に耳を傾けようなどという気が起こらないからである。敬意を向け得ぬ書き手の文章を読まされることはまさしく苦痛以外のなにものでもない。

しかしこれは逆説的にいってみれば、たとえある文章が一見して主観的・独断的な文章であるとしても、私がその書き手を尊敬し尊重できる限りで読むに耐え得るということになるのだろう。

もちろんこれは私一身に限ってのはなしではある。幸いなことに私は嫌いな文章、読むことが私に苦痛をもたらす文章をなにがあってもまなければならぬという立場にはいない。たとえば私が学者であったならば、毛嫌いしている他の学者が冗漫な文体で書いた、焦点のぼやけた長大な論文でさえも、同じ村(研究分野)の住人のものであれば全く読まずには済まされない場合もあるのだろう。なにせ批判(クリティーク)するにもまず読まねば始まるまい。「あいつ嫌い!」では済ますことは出来ないことを呪い、せいぜい自分の心のうちで彼が村から出て行って(この世から消えて)くれることを願うしかないのかもしれない。

ある意味、幸せな境遇だと言える(そして不幸だとも言える)。

しかし、この世にはクリティークを目的とした文章しか存在しないわけではない。否、むしろそうでないものの方がはるかに多く存在する。
それともこれは不当な断定だろうか。確かにいま私がなした断定には根拠が無い。あえてあるとすれば私の実感というしかなく、統計的手法も論理的必然性もない。反証可能性の有無でいえば、「まったく無い」。したがって公の論議には値しないというわけだが、私は断然そう言明する。「存在している」と。

長くなるのではなしを端折ることにする。

公の論議、学術的討議にはそぐわない文章(言説)であってもそれが「わたしの意見」「わたしの見解」と明示して表される限りでそれは公にされるだけの価値があると私は考えている。
こう言うと、「そんなことは当然だろ」と言われるかもしれないが、この私の言葉は「公にされる価値があるか否か」を問うものではなく私自身の見解の表明であって、こうした「一見解の表明」に対してそれが正しいとか間違っているとか反論されても困ってしまう。そして敢えて親切にも(これは決して皮肉ではない)反対の論をなすのならばまずは「私の見解はそうではない」という言明をなした上でその所論を述べていただきたいと思う。決して「定説はそうではない」とか「教科書に○○とある」とか「根拠を示せ」とは仰らないで頂きたい。なにせそんなものはもともと無いのだから、無い袖は振れぬ。語るのならあなたの所論を語ってほしい。正解など要らないのだから。

ここまでのことを短くいえば、
それが個人名の元に(つまりは個人的見解であることを明示して)なされる言説であるならば、それに対する反論はまずなによりも先にその言説(見解)が個人的見解であるという「事実」を受け入れた上でなされるべきではないか、ということだ。

ここで問題となってくるのは、その個人的言説がどのような媒体に載っているかということかもしれぬ。その媒体がたとえば新聞のように「公平・客観」をいちおうの旗印にしているものである場合、そこで表明される言説は「個人」の名が示されてたとしても「公平・客観」な”公器”の為すものに見えてしまいがちである。それ故、新聞社・マスコミあたりが「断定」を避けたがることもうなずけないことはない。しかしながらマスコミが個人的見解の表明を避けたくなる要因は、彼らがつねづね「公平・客観」を売り物にしているところから来ているのであって(これまた不当な断定だろうか)、はっきり言えばマスコミの一身上の都合であるに過ぎない。つまり、マスコミが被傭者ならぬフリーの書き手に、「おらとこの都合にあわせてくれろ」というのは、その良否はともかく当然のことと言える。大言壮語は我が身を縛るのである。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。自縄自縛。自縄自爆!。

例のごとく話が逸れてきたようだ。これまた大言壮語と言うべきか。

確かに「不当な断定」は避けるべきである。しかし「断定が不当」であるわけではない。

断定的にしか語り得ぬことは少なくない。客観的根拠を示すことが出来なくとも敢えて断定的に語るしかないこともある。表現の冗漫さや曖昧さが文章の存在価値そのものを無に帰さしめるであろうとき、語ることをやめるか、それとも「不当な断定」という非難を甘んじて受けるかを選ぶ自由くらいは書き手に残されて然るべきだろう。

最後に。
これを書くにあたって内田ブログに自分が書きこんだコメントを読みかえしつつ改めて思ったことがひとつ。
右寄り政治家は「事実」「証拠」が大好きらしい。しかし「事実」「真実」を語るにあたって客観性を過度に重視する危険性というのがあるのではないだろうか。「証拠は無い」「事実かどうか断定できない」という物言いはいかにも客観性を重視しているようにも見えるが、彼らの為すべき仕事は「客観的事実」を究明することではさらさらなく、事実関係の曖昧さを乗り越えて難事を片付け、事を処理することであるはずだ。「それは不当な断定である」という批判は甘んじて受けよう。それでも私は繰り返して言う。それはあなたの仕事では無い、と。

当初の予想通り冗漫な文章になってしまいました。こんなダラダラした文章、さすがに他人様のブログには書き込めないわな。

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