求道blog

宇城憲治『武道の心で日常を生きる』

Posted in 剣・禅・道 by UBSGW on 2006年12月24日

初めて読んだときと同様、今回も思わず姿勢を正したくなりました。
著者は心道流空手道師範。UK実践塾主宰。

もっともらしい顔つきで「規範意識の向上」だの「品格ある人間育成」だのと語っておられる方々にも是非この一書をご一読いただけば、「まずは我が身を振り返らねば」と思っていただけるのではないだろうか。語られる内容は目新しいものばかり、というものでは決してなく、むしろ当り前のことが何気なく語られているのだけれども、何故か心に強く響いてくる。そんな書物です。

言葉に力がある

その力が何に由来するものなのか、私にはわかりません。しかし紛う方無き力がその文面に宿っているように私には感じられますが、その力は、印象的な一文を抜き書きしても現わすことができないとつくづく思います。したがって普段は心に残った一文の引用ばかりやっている私ですが、この一書に関しては抜粋引用は控えたいと思います。しかし敢えて一文だけ。

私が、なぜ宮本武蔵が書いた『五輪書』にエネルギーも感じるかというと、やはり武蔵本人が実践者だからです。実践していない人にも、似たような本は書けると思います。けれど、みなぎるエネルギーがぜんぜん違います。活字になっても、その差が表れます。教えてばかりで、自分が学んでいない、実践していない親や教師が多すぎます。子どもはそれに気づいています。親や先生自身がやってみせることもできないのに、口先だけで教えても子どもには響きません。親が自分の中に自信を持つ。必死になることです。そういう覚悟と姿勢は子どもに伝わります。

相手が子どもに限ったことではないですよね、おそらく。
言葉だけに頼っていて相手にどれほどのことを伝えることが出来るだろう。
空っぽな自分はそのまま捨て置いて言葉ばかりに頼って相手だけを変えようとする傲慢。

法律を作ったり変更することで何かを変えようとする思考法もまた同様だろう(たしかにそれで変わることもあるが、そういう時は大抵の場合、想定外の(副作用的)変化を伴うことが看過されがちなのだ)。法律すなわち言葉の集まりだもんね。

もっとも、言葉の力は偉大であるともいうことはできよう。が、どれほど素晴らしい言葉であっても、相手の耳に届かぬ言葉はやはり無力だ。そして聞く者をして耳を傾けてみようかと思わせるにもやはり言葉は絶対的に無力だ。だって聞く耳を持たない者は、どれほど相手が熱心に言葉を掛けたところで「はなっから聞いていない」んだもん。馬の耳に念仏。馬耳東風・・・。

「聞いてみようか」
「この人はなにを言わんとしてるのか」

そう思わせるには非言語的ななにものかが必要であり、それなくしては何も始まらない。そしてそれが出来れば目的の過半は果たされたと言うべきだろう。
「なにを語るか」ではなく「どのように語るか」
そこのところが昨今の様々な問題において置き去りにされがちな点であり、また問題の核心だと思った次第。

「(言葉にしろ人間にしろ)中身が大切なんだ」
確かにその通りだと私も思う。しかしまた同時にこの種の「正しい言葉」の持つ副作用、誤解、拡大解釈を私は恐れる。

「中身が大切!」なんて相手に向かって語りかけながら、その言葉が口に出されたそばから「中身」ではなく「形式」に”凍り”つきつつあることに自覚的な人は非常に少ないと思う(私なぞ話す前から凍りついてます)。そのような機微に通じた人の言葉に接したとき、私なら喜んで聴く。私は相手の言葉の「中身」でもなく「形式」でもない何ものかを欲して耳を傾けるだろう。

「聞く耳をもつ」
ありきたりな言葉だけれど、よくよく考えてみるととても大切なことだと改めて思う。他人の言を「聞く耳を持たない」でいて「今どきのわけえもんはなっちゃいねぇ」とのたまうお偉いさん方ばかりが目に留まる昨今、今こそ必要なのは「一億総懺悔」では!?

「んじゃおめーがやってろ、勝手に懺悔!」

ん、そうします。

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双葉山~相撲求道録

Posted in 剣・禅・道 by UBSGW on 2006年5月29日

私自身は双葉山の全盛期を直接には知りませんが、木鶏のエピソードからフト興味を持ったので読んでみました。勉強になります。

双葉山が三役から転落した時の回想

 たまたま勝越して三役にのぼったといってみても、実力がこれに伴わなければ、振りおとされるのは当然至極で、少し位背伸びをしてみたところで、追っつきうるものではありません。こういう羽目にぶっつかると、だれしも自分自身の素質について疑いをいだくようになり、心に迷いを生ずるものです。この「疑い」と「迷い」に負けてしまえば、それで万事がお終いなのですが、幸い、なんらかのきっかけで自信を取りもどすことができれば、それでまた立ちなおることも不可能ではないのです。

技について

 ・・・「無意識」のうちに「技」が出てこなければならないのです。・・・意識と身体とが二途になっては駄目なのです。この二つのものが、あくまでも渾然たる「一枚」となりきらなければならないのです。

横綱の強さ

 横綱ともなるほどの力士は、衆にすぐれた力量を備えているはずであるのに、時折横綱の敗北という現象がみられるのは、やはり気分的に固くなったり、調子をおろしたりするからではないかと思われます。・・・要は、体にも気分にも、いわゆる「シコリ」をつくらぬように心がけて、かねて修練した実力を、十分に発揮しなければならないのです。

双葉山の人気について ~吉川英治の描写

 低いところから落せば欠けない物を、勝手に高所までさし上げて行って落すのが人気の特質である。

木鶏のエピソード
 69連勝で安芸海に敗れた際、心友の一人であった竹葉秀雄が「サクモヨシチルモマタヨシサクラバナ」と打った電報に対して、双葉山からの返電が「ワレイマダモツケイニアラズ(我未だ木鶏に非ず)」、さらに負けて「サミシイデススグオイデコフ(寂しいです。すぐお出で乞う)」であったとのこと。

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荘子

Posted in 書籍一般 by UBSGW on 2006年5月10日

徳の充実に関する”木鶏”の話に感じるところがありました。
大相撲の連勝記録が途絶えた際に、「我未だ木鶏たりえず」と語ったという双葉山に関する本を探してみようと思います。

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