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「大本営発表」とJBpress アワセテヨミタイ

Posted in 報道・ジャーナリズム by UBSGW on 2011年2月14日

しばらく書くことをサボると、思考が細切れになってしまってひとつの文章にまとめることに難儀する。頭に浮かんだ単語だけここに書き留めてもなんのことやら分かりもすまいが、ためしに挙げれば「大本営発表」、「JBpress」、「エコノミスト」となる。これだけでは自分でもなんのことやら分からないので今から少し頭を使ってみるとする。

「英国人が絶賛する日本の首相」(JBpress)とあるのを見て、古びた元人気芸能人が看板になった詐欺商法を思い浮かべた私は、一言で言えばそいうのが嫌いである。「それがどーした」。で、この記事のよく分からないところは、タイトルと記事内容の関連が薄い上に、記事の末尾に「自分にはエコノミストの記事は皮肉の固まりとしか読めない」とあってこれまた記事タイトルとは合致しない。そのへん、言うに言われぬ事情でもあるのかー。ともあれその「英国人」が日本の首相を絶賛しているというのは2月10日付の「日本の政治:日本開国」(JBpress)で、その元ネタは “Opening Japan to the world” (The Economist) である。

ところで、コンピュータ関連のニュースサイトあたりでは、翻訳記事の場合に元記事へのリンクを貼ってくれていることが多いのでいちいちGoogleさんにお尋ねする手間がいらないが、インターネット以前からの古い店(サイト)は日付と媒体名くらいしか書いてくれないので面倒だ。そうかといってその手間を惜しむと、時には翻訳記事に騙されてしまうということもあるのでなおさら鬱陶しい。ちなみに上の翻訳記事自体はそういう騙し記事というほどではない。が、単体の記事としてはともかく、「英国人が絶賛!」というのは正確とはいえないようだ。

さて、エコノミストのサイトをのぞいてみると、先に記した元記事と同じ日付の “Shaking up Japan: Bold, or plain reckless?”というのがある。記事の冒頭には、自分を取り囲む黒服黒ネクタイの屈強な男たちとは対照的に上着を脱いだラフなネクタイ姿でニヤニヤ笑っている男の写真が掲載されている。その写真、見ようによっては、周囲の世界と隔絶した(隔絶された)みすぼらしい一人の男にも見えるし、あるいは周囲の「抵抗勢力」から黒服の公務員によって守られている「指導者」にも見えないことはないようだ。いずれと見るにせよ、他に無いわけでもなかろうにあえてこういう写真を選択して掲載する「英国人」とやらが当の男を絶賛しているのだとすれば甚だ奇異なことではある。

一つ目の記事はもとよりこちらの二つ目の記事を読んでみても、どこをどうひっくり返して読んでも絶賛のゼの影すら見いだせないのは私のつたない英語力のせいなのかもしれないが、この記事はこう結ばれている。

Yet if push comes to shove, there is a chance that Mr Kan—or a more charismatic substitute—might pull it off.


参考:S&P downgrades Japan to AA-

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「売国奴」と対話について

Posted in 政治 by UBSGW on 2010年4月10日

1945年の敗戦ののち、ふたたび「売国」とか「売国奴」などという言葉が公然と口にされるようになったのはいったい何時ごろであったろうか。幸か不幸かまだそれほど昔のことではないと私は感じているが、とりわけ昨年(2009年)9月の民主党政権誕生(つまり自民党の下野)以来、こうした言葉が何の躊躇いもなく口にされるようになってきているように思うがみなさんはどう思われるだろうか。わずか三年ほどの間に世論調査という人気投票の如きあやふやな民意を背景に安倍・福田・麻生政権と続いた自民党政権末期には、既に「国益」という言葉が主立った政治家・官僚によって(私の見聞した限りでは)かなり無雜作に用いられるようになっていた。いっぽうで、政権が民主党に移ったのち、一部で「革命」だの「革新」だのという、見方によっては物騷な言葉がなんの躊躇もなく口にされることもまた、私には何とはなしに苦々しく感じられるのは事実ではあるが、その青臭さに辟易することはあってもまだ「売国」などという言葉のもつ狂信的な臭いの耐え難さに比べればはるかにマシではある。

はなしを分かり易くする為に、ひとつの例として次の新聞記事を引用してみる。記事のタイトルは「売国的な法案許さぬ…平沼新党旗揚げ会見」だそうである。

反民主党を旗印に掲げる新党「たちあがれ日本」の結党記者会見が10日午後、東京都内のホテルで開かれた。
代表に就いた平沼赳夫・元経済産業相は「今行われている民主党政権による政治は、この国をダメにしてしまうのではないか」と語り、反民主の姿勢を鮮明にした。
民主党の政策について「売国的な法案が羅列されていて、それをいま表面に出してきている。断じて、我が日本のために、野放図に許してはならない」と厳しく批判した。
(以下略)

「売国的な法案許さぬ…平沼新党旗揚げ会見」YOMIURI ONLINE(2010年4月10日)
なお、この平沼某氏が「売国的な法案」として批判しているのはおそらく外国人地方参政権法案のたぐいであろうと思われるが、このエントリで主題としたいのはあくまでも語法そのもの、すなわち自らが賛成しかねる意見・言説に対する批判の語法そのものであることを念のためお断りした上ではなしを進めてみたい。

大辞林によればそもそも「売国」とは「自国に不利で敵国の利益になることをして私利を図ること」をいうのだそうだが、「売国」という言葉の意味を確認してみた時点で最早この平沼某氏はほんとうにその言葉の意味を理解しつつ公の場でそれを口の端に載せたのかどうか怪しいものだと思わざるを得ない。売国が敵国の利益を図ることなのであれば、はたして現時点で公の場で日本にとっての敵国と呼ぶべき国はどこの国のことなのであろうか。現在のところ、日本にとっての敵国と呼称され得る可能性のある国と言えば(大胆に見積ったとしても)北朝鮮くらいしか思いつかないが、当の国にしたところで未だ、公人が、公の場で、「敵国である」と公言することが妥当であると衆目一致しているとまでは言えないように私には思われるが、どうだろうか。さらに言えば、そもそも「敵国」とは大辞林によると「戦争をしている相手の国」であるそうである。そうであるならば、現に日本が戦争を遂行している相手国が存在しない以上は(少なくとも論理的には)「売国」という行為は存在し得ないということになる。なおここでは、何故平沼某氏がそこで論理的にはあり得ないはずの「売国」という言葉を用いたのか、その真意を文面からあれこれ推量することはしない。しかしひとつ明確に言えることは、あれこれ考えるまでもなく「売国」という言葉が一種の詈り言葉であるということである。「非国民」「アカ」「チャンコロ」などという言葉と同程度に汚い言葉であって、自分を持ち上げ他を貶める夜郎自大な言葉である。私は、平沼某氏はまず政策云々以前にデモクラシーとは何かを考えてみた方が良い、と思っている。

さて、ここまでの文章をいったい何人の方に読み通していただけたであろうか。そしてもし読み通してくださった方がいたとして、ここで私の言わんとするところを理解していただけたであろうか。なかには「売国という言葉の字義を以て平沼某氏の発言を曲解しているだけではないか」あるいは「こいつは北朝鮮シンパか?」と感じられた方がおられるかもしれない。その場合、私がこの文章を書いた目的の半分は果たされたと言っても良い。なぜならば、たしかにここで私が述べたことは、ただその曖昧さあるいは趣旨の読み取りにくさという点では平沼某氏の言葉とさして変わらないのかもしれない。しかしながら少なくとも私は平沼氏をキチガイであるとか国会議員として不適であるとは言っていないし、彼が極右であるとも断定していない。私がそうした断定を避ける理由は、「キチガイ」「極右」という言葉(こうした言葉は、平沼某氏が用いた「売国」という言葉と同様に汚い言葉である)にはそれ自体に否定的な意味、より広く言えば或る種の「価値判断」を含んでおり、そのような「否定的な言葉」が用いられる対話、「(個人的な)価値判断」を不動の前提としてなされる対話から得られるものは通常ごく僅か乃至皆無であるというのが通例であるからだ。

たとえば、もし私がここでいささか意味不明なことを述べ立てたのだとして、誰かに「あなたの言うことはつまり○○なのか?」と問われたならば私は「そう、その通り」「いや、そうではありません」と答えた上で改めて相手に私の真意を伝えることができる(少なくとも伝えようとすることは可能である)。しかしもし「○○としか読みようがないぞ!」「○○という意味ならもっとちゃんと(初めからそうと分るように)書け!バカめ」とでも言われれば、私には「いやあ、違うもんは違うし・・・」「いや、もう書いちゃったし・・・」とでも言うほかはなく、そういう人とまともに対話をすることはたぶん不可能である(もちろんわかりにくい文章読みにくい文章はそもそも親切さに欠けるとはたしかに言える)。

「売国的」という言葉はまっとうな対話に適した言葉では全くない。それは対等な議論によって結論を導くというデモクラシー(民主政治)とは相容れない言葉である。そしてそうした言葉が、まがりなりにも民主的な国家であるとされている日本で公然と口にされるということが、私の眼には日本の民主制が壊れつつある(あるいは既に壊れてしまっている)ことの徴(しるし)だと映るのである。

私の言わんとするところは、なにも辞書に書かれたとおりの「正しい」言葉を使いましょうなどということでは無い。「開かれた言葉」「開かれた対話ができるような言葉遣い」というものがあるのではないかということ、そして平沼某氏のくだんの言葉はその種の「対話に適した」言葉ではないのではないかということを言いたかったのである。「開かれた言葉」「開かれた対話」を志す限りは、仮に平沼某氏が辞書にはない意味で「売国」という言葉を用いたのだとしても、その意味するところは対話によって自ずと明確なものになるだろう。しかしその「売国」という言葉そのものが既に「閉じられて」おり、対話には用いることの出来ない言葉であるのではないかということ、そしてそうした言葉を用いる平沼某氏は、ひょっとすると誰かに何かを訴えているようでいて、その実は「対話」を拒絶する反民主主義者だと自ら称しているのではないかということなのである。

「開かれた言葉」によってなされる「開かれた対話」こそがデモクラシーの礎であり、何が正しいのかを議論によって決しましょうと言うのがデモクラシーであるとすれば、議論の初めから一方が自らの正しさを前提としその撤回を断固拒否することはそれ自体が既にデモクラシーに反するのではないか。相手を売国奴と罵ることは相手を「敵」であると措定し、そこから当然に相手との妥協を断固拒否することと表裏一体であって、軍人ならぬ政治家の振舞いではもはやない。それとも平沼某氏は「売国奴」に対してすら妥協してしまうような「政治家」なのであろうか。

(2010年4月11日一部改稿)
(2011年9月4日字句修正)

オープン・ソサエティとか全体主義とかの覚え書き

Posted in 歴史カテゴリ by UBSGW on 2010年2月21日

ジョージ・ソロスが”The Age of Fallibility”の中で使っていた”feel-good society”という言葉について昨晩ひとしきり考えていたが、ここに書くまでには至らず、今日もちょっと書けそうにない。私が理解したところを端的に言ってしまえば、ソロスはこの言葉に、「自分さえよければ」といったような多少なりとも”主体的・能動的”な意味あいよりも、むしろ口当たりの良いものばかりを選好する(つまり消費者至上主義:consumerismに慣れきった)有権者の非主体的な在り方への批判の色を載せ、さらには、そうした受動的な有権者(それを群集と言い換えてもいいだろう)を十重二十重に取り巻くマスメディア、ひいてはそのような有権者によって選ばれた政権(ブッシュJr.政権)の政策に批判的な目を向けている(この本は2006年、ブッシュJr.再選後に執筆されている)。

ただしそれはこの本の副次的なテーマの一つに過ぎず、そもそもこの本の(そしてひょっとするとソロスの言論活動の)最も大きなテーマとしてソロスは「オープン・ソサエティ」という概念を何度も何度も手を変え品を変えながら書き綴っている。それも単なる市場開放だとか移民の受け入れだとかいう(相対的に)些末な話としてではなく、それらの淵源となるはずの「人間の思考態度そのもの」を起点として論(というよりはエッセイ)を展開してゆく。外界に対して「開かれた思考」と「閉じた思考」。「開かれた社会」と「閉じた社会」。

むろんそれ自体はなんら新しい概念ではない。でもそれは人が不断に配慮せねば保たれ得ぬものであることは確かであるように私は思う。ところで、なぜ彼ソロスはそれほどまでに「開かれた社会」「開かれた精神」に拘るのか。おそらくその理由の一つは、(ハンガリー出身である)彼がナチスとソ連の「全体主義」をまさしく身を以て体験したところにあると私は考える。

ここで私の話は一気に飛躍する(だから覚え書きなのです)。

ファシズム・全体主義の時代を生き抜いてきた人たちは(ソロスに限らず)、ごく近いうちに私たちの身近なところから消えてゆく。既に歴史的には(ある程度)相対化されたと言って良かろう二十世紀型のファシズムあるいは全体主義を、当時の生活の中で否応なく主体的に(それぞれの仕方で)経験させられた人たちが時の流れと共に姿を消したのち、現代人たちは新たな「ファシズムな何か・全体主義な何か」をそれとして確かに認識することができるのだろうか、あるいは(もし既にその萌芽でもが存在しているとすると)現にそれを認識できているのだろうか。

と、そのようなことを考えながら結局読み物としてはまだまとまらなかったので、とりあえずつまらないのを承知の上でここに書いてみた。いずれ改めて書く(書きたい)。
ではまた。

原著:George Soros,[amazon asin=’1586483595′ type=’inline’]
邦訳:ジョージ・ソロス『[amazon asin=’4270001534′ type=’inline’]』

(2010/02/21一部改稿:主にテニヲハを修正)

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