求道blog

ハシゴ論もどき

Posted in 行政 by UBSGW on 2008年1月4日

「一貫した主張」だとか「首尾一貫」といえばおよそ「良いこと」だと考えるのがフツウのことなのだろうけれど、これらの「フツウのこと」を一度は疑ってみるというのが私の”一貫した”思考態度である。したがって私自身は「一貫性」「首尾一貫した態度」を必ずしも否定的に評価する者ではない。ただ、「一貫した一貫性」だとか「いつでもどこでも首尾一貫している」などというものが仮にあった(いた)としたら、そうしたものには大いに疑問を感じるのだということなのだ。ん、これではわかりにくかもしれない。

人がある事象(物事)を理解しようとするとき、そこに首尾一貫した法則を見いだすことができれば話はたいそう簡単だ。水は低きに流れ、水は火を消す。一貫した法則、原理原則、論理性、お定まりのルール、べつに何と呼んでもよい。ところで、大昔のこと、水が火をあおり、石が燃えたとき、きっと人は驚いただろう。そして未だ人知の及ばぬことは腐るほどある(はず)。今も昔も「現代人」はなかなか自分の無知を理解しがたい。「現代人の盲目」はつねに人間につきまとう。昔の人の無知を憫笑しつつ己の知性に誇りを抱く。それどころか「かのクニでは・・・」などと同時代人にすら教えを垂れることさえある。おそらく無知の知の実践者は「永遠のマイノリティ」というべきかもしれぬ。もっとも、そうでなければこまる。誰もが鍬を棄て思索にふけってしまうようになれば食うものも食えなくなるのだから(これは野人の僻目か?)。

それはともかくとして、論理性なんてものは単なるハシゴではないだろうか。事象を理解するための(二階に昇るための)ただの道具。建物(事象)に立てかけ、仮設してスルリスルリと昇っていくための道具。ときには例外的超人がハシゴを使わず一気に上の階に(下の階でもよし)跳躍することもあるが、べつに彼はその一部始終を解説する必要はない、彼がそれを望まなければ。おそらくアインシュタインは自らの跳躍を物理学の法則で解説し、ドストエフスキーは物語という道具を用いて解説した。そういう風には考えられないか。まずヴィジョンありき。

たとえ偉大な科学者たちが首尾一貫を旨とする論理を用いることで、ある事象を解説できたのだとしても、それは論理すなわちハシゴを積み重ねてゆくことによって上の階に到達できたのだと言うわけにはいくまい。もし誰かが「ハシゴを積み重ねてゆけば上に辿り着ける」と言ったとしたら、彼は「魔法の杖を一振りすれば願い事がなんでも叶う」と信じるオカルティストと呼ばれて然るべきだろう。そしてじつは、合理主義者を自称するオカルティストはそれほど珍しくないかもしれぬ。

ハシゴを魔法の杖と信じるオカルティストと並び称されるべきは「事実コレクター」だろうか。(それ自体真偽不明の)事実の欠片を集めれば集めるほど真実に近づけると信じ切った狂信者たち。むろん彼らが後生大事にしたがる欠片が本当に真実の欠片であるなら望みはまだあるのかもしれないが、多くの場合真実の欠片なんてものはこの世に存在しない。「真実は一つ」とはなにもこの世のあらゆる事象に各々にただ一つの真実がそなわっているということを意味しているわけではない(そんなこともあるのかもしれないが)。おそらく「真実は一つ」という言葉は、真実とは「一にして全」なのだということを表現している。人間が掴みうることのない生の実相、人間の営みの総体(全体)は常に真実である(そうであって欲しい)、と、そういうことを表現しているのではないだろうか。そういう風には考えられないのか。結局のところ、「真実は一つ」という言葉はひとつの信仰告白以上のものではない、というのが私の考えである。私たちにできるのは、自らの認識力には限界があるということを受け入れ、観念したうえで、牛のようなのろのろとした足どりで行けるところまで行くということのように思われてならない。

このように只でさえ困難な道のりを、まるで足りない頭でひねり出した筋書き通りに進もうとするなんてことは、一言で言えば愚行ということになるだろう。愚か者にかぎって口を開けば大言壮語、とはよくある話。見たいものだけを見、聞きたいものだけを聞き、辻褄を合わせ、地図を描き直し、果てはまるであさっての方向へ突っ走る阿呆。周囲に何もないひらけた場所でハシゴを立てようと四苦八苦、ようやく立ったところで二つ目のハシゴを重ねようとまた四苦八苦。さらに三つ目のハシゴを・・・。重ねれば重ねるほどに不安定になっていく一連のハシゴ。こんなものはほんの一突きであっというまに崩れ去るのは眼に見えている。そんな馬鹿なことをやっているということにすら気づかない奇妙な合理主義者、合理性「原理」主義者がこの世にいないと言えるだろうか。疑問。

論理のうちに人間を住まわせることはできない(これだと「当然だろ」と言われそうだな)ということをどのように表現したものかと考えていたところちょうど良いのに出会った。

「与えられた事態にある態度をとる人間の最後の自由、をとることはできない」

フランクル『夜と霧 ~ドイツ強制収容所の体験記録』みすず書房 P166

与えられたどのような事態に対しても各人がそれぞれ(きわめて限定的な選択肢の中からではあれ)任意の態度を選択できるという「人間の最後の自由」を奪いとることは誰にもできない。

人間に与えられたこうした自由を考慮しない、歪(いびつ)な「論理の階梯」は、ときとして人をあらぬところへ連れ去るのである。ユダヤ人虐殺に見られる人間の傲慢さは、いまも、そこかしこにある。

ところで、
当然だと思っていたことがそうでなくなるからこそ「コペルニクス的転回」と言うはずなのだが。小さな穴でもその気になれば結構いろんなものが見えてくる。
「北方事件:佐賀県警が鑑定細工か」(毎日jp)
こんなものは些細な綻びに過ぎないだろう。推して知るべし。

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ゲーテ『ファウスト 第二部』

Posted in 海外文学一般 by UBSGW on 2006年10月7日

ファウスト第一部を読んだのはいつだったか・・・5、6年前だったでしょうか。内容はもうすっかり忘れていますが、没頭して読んだ覚えだけは残っています。
しかし、当時は第二部に入って早々に挫折しました。第一部とは全く違った雰囲気で、ストーリーが見えず掴み所のない思いで巻を閉じました。
ユングがファウスト第二部から多くのインスピレーションを得たと聞いて、今回改めて読んでみる気になりました。今回はなんなく読了。これがもしゲーテの作でなければ読み通すことはなかったかもしれません。

鎖に繋がれた品のいい夫人が歩いて行きますが、ひとりは不安そうで、もうひとりは愉快そうにしています。
つまりひとりは自由を求め、もうひとりは自在を得ているのですね。

↑この部分、なんだか禅に通じるものがありそう。
自由を求めるが故に不自由になる。不自由な状態にありながらも自在(自由)で在り得る。

「日々に自由と生活とを闘い取らねばならぬ者こそ、自由と生活とを享くるに価する」
・・・
己は自由な土地の上に、自由な民とともに生きたい。
そういう瞬間に向かって、俺は呼びかけたい、「とまれ、お前はいかにも美しい」と。

悔いを知れるなべての優しき者よ。
感謝しつつ己が性(さが)を変え、
清らけき福を得くべく、
われらを救わせ給うおん方を仰ぎ見よ。
心すぐなる者はみな、
おん身に仕えまつるべし。

この作品についてあれこれ述べるだけの力は私にはありません。思うところは多々ありましたが、それをありきたりの表現しかできない私の言葉に移すことは無駄、というか作品に対する冒涜のような気がします。

「じゃあ、なぜブログにこんなこと書いてるの?」

・・・・・・それは・・・ですね、
以前は受け入れきれなかったファウスト第二部ですが、今回は読めた。
ということは「その気になって耳を傾けてみればなにか伝わってくるものが必ずある」のかもしれない、ということを書いておこうと思ったから、です。
おそらく以前の私は、今以上に感性の間口が狭かったと思います。いや、狭めていたというのが正しい、でしょう。それはこの本に限ってのことではありませんが。深く反省。

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新時代~『エデンの東』より

Posted in 雑記, 格言集 by UBSGW on 2006年8月20日

なるほど、二人がかりなら一人より大きな石を持ち上げられよう。集団でかかれば、一人でやるよりよい車を早く作れるだろう。大工場で生産されるパンは安くて均質かも知れない。だが、衣食住のすべてが大量生産という複雑な機構から生み出されるようになるとき、私たちの思考にも大量生産方式が入り込むことは避けられない。それは他の思考方法を排除する。大量生産の時代、集団生産の時代だ。経済にも政治にも大量生産が入り込む。・・・人類は、唯一、創造する生物種だ。創造のための道具は個人の心と精神であり、それ以外にはない。何であれ、二人がかりでの創造などあったためしがない。音楽であれ、美術であれ、詩であれ、数学であれ、哲学であれ、協同による創造などはない。ひとたび創造の奇蹟が起これば、集団がそれを敷衍し、発展させていくことは出来よう。だが、集団が何かを発明することは決してなく、価値は個人の孤独な心の中にこそある。だが、いま、自由で放浪する心は追跡され、捕縛され、鈍らされ、薬漬けにされる。人類は、種として悲しい自殺への道を選択したように見える。

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