求道blog

とりかへばや文学評

Posted in 日本文学一般 by UBSGW on 2008年1月7日

例年のことながら、年が変って以後、低空を遊覧飛行中。軽いもの、面白いもの、くだけたものだけを食し、読み、観ている。大晦日に向かって膨らんだ風船が年越しと同時に萎み、一日は酒と昼寝、二日は映画、三日はテレビといった風。そして徐々にまた高まっていくというのが近年の習性となっている。そしてまたなぜかこの時期に読みたくなるのが「心」に関する本。ユング、河合隼雄・・・。彼らによるとどうやら現状は「心的エネルギーの低下した状態」とでも言うらしい。要は「タメの時期」というわけだ。「芸術は爆発だ!(@岡本太郎)」

河合隼雄『とりかへばや、男と女』(新潮文庫)の冒頭、引用されている国文学者藤岡某氏の「とりかへばや」評についつい独り笑い。

「人情の微を穿てるところなく、同情の禁じ難きところなく、彼此(ひし)人物の性格十分に発揮せず、ただ叙事を怪奇にして、前後応接に暇あらしめず、つとめて読者の心を欺諞(きへん)し、眩惑して、小説の功成れりとす。その奇変を好むや、殆ど乱に近づき、醜穢(しゅうわい)読むに堪えざるところ少からず。敢て道義を以て小説を律せんとするにあらず、その毫も美趣の存ぜざるを難ずるなり。殊に甚だしきは(後略)」

「怪奇」を「ふぁんたじい」とでも取り変へれば、今でもよく耳にする”悪口”ぢゃあないかね、こりやあ。

先般物故した河合が「物語り」について面白いことを書いているが、それについてはいずれ。
つづきを読まねば。ワシワシ。

とりかへばや文学評 はコメントを受け付けていません

やじうま根性

Posted in 日本文学一般 by UBSGW on 2007年12月23日

このブログでは書籍の一部分を引用することがしばしばあるけれど、そのたびに思うことがある。
安易な引用を許さない文章こそ優れた文芸作品の条件の一つではないだろうか、と。これを別の言葉で言い換えるなら、粗筋を知ってしまえばもう読む気も失せてしまう作品ではないものとでも言おうか。まあフヤケタコトバカリ書き連ねてあってどこもかしこも箸にも棒にもかからないというのもあるかもしれぬが。

以前、どこかのブログのコメント欄でとある理論(?)に対する感想を述べたことがあった。wikipediaの記述をざっと見たばかりで感じたにすぎぬ愚見であったが。まあ決して褒められた態度ではない。もし自分がそれやられたら結構怒り心頭にというところだ。だからというわけでもないが(あるか?)、ちょいと一晩かけて仕込みをした。しかし結果的には無駄になったのだが。

島田Mが村上Hに尋常ならぬ感情を持っているらしいことがネット上のあちこちにあるようで、よそ事ながら結構興味津々なのだ。で、先日とある人気評論家(学者)さんのブログでまたそのようなものを読んだので、「へえ、やっぱほんとなの?」と思った次第。そこには村上のむの字もないんだが、こりゃあ「むの字はの字」しかいないだろ、とね、思ったわけだ。実際のところはまるで知らない。それはそれとしてなぜ島田が村上についてなぜにそこまで言わずにはおれないのかが知りたい。興味をそそられる。そこになにかありそう。野次馬です、ハイ。

それでま、ありもの島田を読んでみるかというわけで取り出したのが『忘れられた帝国』(「太陽の帝国」と間違ってしまいそうだ)。手許には他に『やけっぱちのアリス』しかない。後者は自腹を切ったものだが、前者はちょっとした経緯があって俺の本棚に収まっているもの。なもんで読むのは今回が初めて。いちおう以前何ページか眺めてみたが、それだけ。前の持ち主は大絶賛していたんだが。小説のつもりで読み進めていたらいつまで経ってもはなしが始まらないのに業を煮やした、とかそんな感じだった記憶がなきにしもあらず。

今回読んでみたところ、エッセイらしきものだということが判明。なるほど魚屋の店先で「鯖のみそ煮缶詰くれ」と言ってたわけだ、かつての俺は。話が通じなくて当然だ。で、この『忘れられた帝国』、結構笑える。引用はしない。そもそも笑い話は引用には向かないし、彼の作品そのものがどうも引用には向かないものだという気がしているので。なにせマンデリシタームの人ではあるしね。マンデリシタームについては、アフロディーテとかいう詩を島田が訳したものをこのブログのどこかにメモしている。)

ところで何故島田は自慰にこだわりを見せるのか。そこが私にはまだ分かっていない。村上が都合のいい性交を描く意図が分からないのもまた同様。モテル島田の描くモテナイ男と、モテソウニナイ村上の描くモテル男という「二重の対称性」にはなかなか興味深いものがある(これは私の主観ですよ、主観)。謎を解く鍵は意外とそのあたりにあるのであろうかどうであろうかあろうかあろうか。
ま、どうでもいいことではある。
そう、どうでもいいこと。
書いていればよし、カクしかない、でしょということで。

くおりあさんちでの戯れ言については、口をつぐむことにする。なぜなら言ってしまったその瞬間に自分に跳ね返ってきてしまうので(そしてそれは俺にとって48時間くらい逆立ちし続けることに等しいのだから)。鏡よかがみよカガミさん・・・あなたのおうちはどこですか。

ちなみにこの本の冒頭ちかく、下水に落ちた弟のエピソードがある。

弟は確信を持って地下水路に誰かいたといい張る。たぶん、光が苦手な照れ屋の河童が下水に住みついていたのだろう。その河童が弟をあの世へ流さず、この世へ押し戻したのだ。
帝国の下水には河童も住んでいる。
  島田雅彦『忘れられた帝国』新潮文庫

国家とは別の次元の、国家に対する反逆も破壊も伴わない「帝国」はいまもかろうじて存在している。いや、そうであって欲しい。そうでなければならない。念のため言っておくが、「帝国」を辞書でひくのはやめてくれよ。そこに政治的意図なんぞはまるでない。「帝国」の意味が知りたければ頼むからまずは島田を読んでね。読まなければ分からないものこそ文学です、たぶん。
辞書に載っていない言葉はたくさんある。というよりも辞書は所詮インデックス。頼むから振り回すのはやめてくれよ。厚いし痛い。

[amazon asin=’410118707X’ type=’banner’]

カフカ樹海を彷徨う至福

Posted in 備忘録 by UBSGW on 2007年10月7日

ひさしぶりの休養日。あたまはカラッぽ。樹海を彷徨うなら下手な考えは休むに似たり。黙々と歩を進めるのみである。これまた至福。なにせいつでも好きなときに戻ってこれるんだから。虚構の楽しみの一つはこういうところ、だろ?

世の中には、事実は全部あっていても全然本当じゃない話もある。そういう話はだいたい退屈であり、ある場合には危険でもある。いずれにせよそういうのは匂いでわかる。

村上春樹『TVピープル』所収「我らの時代のフォークロア」

Tagged with: ,

カフカ樹海を彷徨う至福 はコメントを受け付けていません